おじいちゃんの話
30年前に戻ってみたいと思うことがある。
私にはおじいちゃんの記憶がない。
3歳ごろまでよくお世話をしてもらっていたらしいが、写真を見ても「これがおじいちゃんなのか」と他人事のように眺めている。
おじいちゃんは私が3歳の時に脳腫瘍で亡くなっている。
母や、姉や、親戚から聞くおじいちゃんは、一寸のズレもなく「優しく、賢く、立派な人」である。残念ながら私にはまるで記憶がない。
今日はそんな、おじいちゃんの話をしたい。お盆は過ぎたけどね。
大人になって地元での活動範囲が広くなると、他の地域の人とも交流するようになる。そして名前を告げると必ず「もしかして、晴雄さんの孫か」と聞かれた。この頃私はおじいちゃんの功績など知るはずもなく、顔の広い人だなあとぼんやりしていた。
よそのおじさんやおばさんは、みんな揃って「おじいちゃんにはたいへんお世話になった」と言い、必ずその後に「立派な人だった」と付け加えた。
しかしみんなその「お世話」について具体的に話すことはない。段々と私は、不思議に感じ始めた。そこで私は、当時まだ元気だった父や祖母に、またはすっかり父親がわりのつもりでいる近所のおじさんたちに、それとなく話を聞いてみた。
今日までに集めた情報はこうだ。
・家業を継いで佐官職人をする傍ら、町会議員をしていた。
・欲のない人で、議員になった後も贅沢をしたり、背広を着ることはほとんどなかった。
・大学に行ったりはしておらず、独学で法律の勉強をし、出戻って来た東京帝国大学(現在の東大)出身の人とたいへん意気投合していた。
・シングルマザーの補償に心を砕いており、地域のシングルマザーの家を一軒ずつ回り、どんな補償をして欲しいか?困っていることはないか?と自転車で聞いて回っていた(免許は持っていなかった)
・何かの抗議をするために、作業着を着てヤンマーの帽子を被って県庁に乗り込み、警備員に止められた。「私は町会議員である」と名乗りその場の人間を驚かせた。
(結局内容はわからなかったが、おそらく農家の補償か市町村合併に関すること?スーツを着てくるようにと注意されたらしい)
・戦時中は呉に潜水艦を作りに行っていた。(戦後シングルマザーに心を砕いていたのは、この時の経験によるものなのかな?と勝手に思っている。)
・祖母や父には厳しかったが、母や私たち孫には大変優しかった。
当時男が孫を面倒見たりするのは恥ずかしいことと思われていたが、おじいちゃんはまるで気にせず、姉をおんぶして歩いて回った。それを見て他の人も孫の面倒を見始めた。
・ガンがわかった時、家族は延命治療をしようとしたが「年寄りにお金を使うより、若い人に使わなければならない」と断り、最後は家の居間にベッドを置いて過ごしていた。
・葬式の日は庭に入りきらないほどの人が集まり、道路にまで続いていた。家に飾ってある勲章は死後地域の人たちが署名してくれたためにいただいたもの。
色々な人から少しずつ聞いて集めた話を今初めて繋げてみた。見れば見るほど不思議な人だ。何故なら「本人が何を考えていたのか?」が一切無いからである。
これについては何度聞いても、口数が少なかったのでわからないということしか聞こえてこなかった。
一体おじいちゃんは何を思い、志を持っていたのだろうか。お盆が来るとそればかりを考える。時にはお墓や、お仏壇の前で問うてみるが答えは返ってこない。
おじいちゃんの死後、父は統合失調症という精神病になった。
あまりにおじいちゃんが立派な人だったために、プレッシャーが強すぎたのだという。
皆口を揃えて「偉大な人すぎた」と言う。
実際父も、おじいちゃんのことが大好きだったようだった。「親父」の話をする時が一番楽しそうだった。父も数年前におじいちゃんと同じ脳の病気で亡くなってしまったため、今はもう深く聞くことはできない。
先日母と会った時、「おじいちゃんがいた頃、一番幸せだった」と言った。
それ以降は父の暴力や祖母の嫌味に耐えなければならず、母は大変な苦労をした。その中でもおじいちゃんの話をする時は「私の尊敬する人」とニコニコして、嬉しそうだったのをよく覚えている。おじいちゃんはきっと、いろんな人の太陽になっていたのだ。
もしその頃の我が家に行くことが出来たらと思う。
国道を作るために移転してリフォームしたばかりの家に、母は嫁いで5年ほど。若くて綺麗。父は子煩悩でよく夜泣きの面倒を見ている。無口だけど優しいおじいちゃんと、キビキビ働く祖母。二人の姉は仲良く遊び、私はきっと赤ちゃん。
絵に描いたような幸せな家庭だ。私はその様子を知らない。
もしその場所に飛ぶことができて、おじいちゃんと話すことができたとしたら。
私はきっと、許しが欲しい。
先祖が守って来た財産を、つい先日私たちが手放してしまった。
もう姉たちは結婚して戻ることはないし、大きすぎる家を、土地を、私たちで管理できるとは到底思えなかった。親戚たちも、早く手放すようにと勧めてくれた。
皆口にしないが、どこかでずっと不安なままだ。
幸せだった家庭を、悲惨だった家庭を、全部見守って来た家を私が淡々と手放した。
それが間違っていたことだっただろうかと、私たちはおじいちゃんに聞きたいし
「仕方のないことだ」と許して欲しいのだ。会った記憶がないのに、こんなに縋るのは変な話だと、自分でも思う。
みんなが言う「お世話になったおじいちゃん」に、私も頼りたくて仕方ないのだ。そんなことして、実際言われても結局後ろめたいままなのだろうけれど。
申し訳ないが、全然オチはないよ。ただ書きたかっただけ。
ああ、書いてみたらスッキリした!これだから文章書くのは楽しくて仕方ない。
ところで最後に書き漏れたことをまとめてやっちゃうのだが、全国的に見れば私の苗字は珍しくないが、地元ではうち一軒しかない。だからこそおじいちゃんの名前はすぐばれた。
そういえば先祖はどこか・・・確か兵庫からふらっとやって来て寺子屋をやっていたんだったか。その真実を教えてくれる人はもういないので、真相はわからないまま。一応分家のようだが。
今30年前に行けたら、母は私と同じぐらいの歳だな。本当は韓国の人と結婚したかったんだって。熱烈だよね。
さて、腹括って美味しいご飯を食べよう。